2024年4月26日金曜日

ラフマニノフ:交響曲第2番ロ短調作品27(ミハイル・プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団)

昨年のラフマニノフ・イヤーに因んで、交響曲第2番を取り上げようと思っていたのに忘れていた。季節はもう4月。寒かった冬は一気に過ぎ去り、今ではもう初夏の陽気である。チャイコフスキーとはまた別の哀愁を帯びたロシアのメロディーは、やはり秋から冬にかけて聞くのがいい、と昔から思ってきた。寒い冬空を眺めながら聞くロシア音楽はまた格別の味わいがある。そんな季節は過ぎたけれども、今年はこの曲を取り上げないわけにはいかない。すっかり軽装でも寒くない夜の散歩にこの曲を持ち出し、夜風に吹かれながら耳を傾けている。これはこれで、なかなかいい。それにしても何と美しいメロディーなのだろう。

ラフマニノフが交響曲第2番を作曲したのは、大失敗に終わった第1番の初演から10年程度経ってからのことである。あまりの落胆のせいで精神を病んだ作曲家は、ピアノ協奏曲第2番の成功あたりから自信を取り戻し、政情不安を逃れてドレスデンに滞在していた際に2番目の交響曲が作曲された。サンクトペテルブルクで行われた初演は(ここは第1番の大失敗を経験した町でもある)大成功に終わり、大作曲家としての地位を確実なものとした。

以上は、この曲にまつわる話としていつも記されることである。全4楽章を通して聞くと、1時間程度の長さとなるので、規模は大きい方である(かつては通常、省略版で演奏されていた)。しかし全曲を通して大いに親しみやすく、長さを苦痛に感じることはない、と言える。特に有名な第3楽章は、いつまでも聞いていたいような美しい曲である。ラフマニノフは天才的なメロディー・メーカーだと思うのだ。

第1楽章の冒頭は、低い弦楽器の憂愁を帯びたメロディーで始まる。ここを聞くだけで、壮大なロシアの大地へと誘われるようだ。このチャイコフスキーとはまた異なる雰囲気は、ロシア独特のものに発してはいるが、それを超えて何か普遍的なムードも醸し出す。そしてこの主題のメロディーは、手を変え品を変え、後半の各楽章でも顔を出すのが特徴である。交響曲がひとつの叙事詩のようになって、一体化している。まあ素人はそのようなことを意識するわけではないが、時にさっき聞いたメロディーが回想風に登場するのは、まるで映画の回想シーンを見るようで効果的だ。

第2楽章はスケルツォ。何かが突き進んでいくような音楽がいきなり顔を出す。まるでパトカーが犯罪捜査に出ていくような映画のシーンのようだ。でもそれがひと段落して、憂愁を帯びた旋律が流れる(中間部)。再びパトカーが走り去ると、甘美なメロディーが突如として現れる。第3楽章アダージョである。すぐにクラリネットが長いソロを吹く。伴奏する弦楽器が緩やかに波のように寄せては返す。

この第3楽章を思いっきり甘く切ない演奏に仕立て上げると、それは実演で聞くには大いに効果的だが、ディスクで繰り返し聞く時には注意が必要だ。他の音楽でもそうだが、過度にロマンチックになると、食傷気味になってしまう恐れがある。これでは繰り返しの聴取に耐えられない。ここは少し知的な節度があることが望ましい。私が初めてこの作品に触れたのは、1993年に録音されたミハイル・プレトニョフの指揮した一枚。当時ソビエトが崩壊し、食うのにも困るモスクワのミュージシャンを集めて結成された民間オーケストラが、ロシア・ナショナル管弦楽団だった(民営なのに「ナショナル」となっているのは不思議だが、ロシアという国家、その文化に対するこだわりだろう)。

ピアニストだったプレトニョフが率いたこのオーケストラは、西側のレーベル「ドイツ・グラモフォン」にいくつかの録音を行った。その中の一枚がラフマニノフの交響曲第2番だった。私はリリースされたばかりのこのディスクを購入した。録音は秀逸で、演奏も洗練されている。そのあたりが好みのわかれるところで、もっと土着的なロシア風の演奏を好む人も多いのだが、私は上述した「ちょっとした不満」が残る演奏の方が長く何度も聞けるのではないかという思いから、このディスクを所持し続けている。そして、あれから30年以上が経過したが、今でも時々聞いている。

甘く切ないムード音楽で始まるのが第3楽章だが、まるでミュージカルでも見ているような錯覚に捕らわれる。ここの音楽を実演で聞く時の感動は、ちょっとしたものだ。何せクラシック音楽のプロが大勢集まって映画音楽の如きメロディーを歌いあげ、そこに12分も続くのだから。

物語は大団円を迎える。第4楽章は速いアレグロで、冒頭は祝典風。時折、前の楽章のメロディーも顔を覗かせ、音楽がまたも憂愁を帯びたかと思うと、再び行進曲風の高揚が繰り返されて気持ちが昂る。音楽に聞き惚れているうちにコーダとなる。ロシア音楽をロマンチックかつ都会的にアレンジした作風は、ラフマニノフの真骨頂だが、この交響曲第2番ほどその傾向が顕著で、しかも長く続く作品は他にないだろう。長くこの曲が聞き続けられ、愛されているのは当然のことと言える。

なお、プレトニョフのディスクには「岩」(作品7)という短い管弦楽作品が併録されている。

2024年4月24日水曜日

R・シュトラウス:歌劇「エレクトラ」(2024年4月21日東京文化会館、セバスティアン・ヴァイグレ指揮)

ちょうど桜が咲く頃の上野公園で開催される「東京・春・音楽祭」も今年20周年を迎えた。IIJの鈴木会長が主体となって始まったこのコンサートも、すっかり春の風物詩として定着、昨今は世界的なオペラ公演が目白押しで目が離せない。今年は何と「トリスタンとイゾルデ」「ラ・ボエーム」「アイーダ」それに「エレクトラ」の4つが上演された。

いずれの演目も大いなる名演だったようだが、その中で私は「エレクトラ」の公演に出かけることになったのは、いつものように前日のことだった。一連の音楽祭の最終日にあたる4月21日は、すっかり桜は散りはててはいるものの、多くの人出でいつものように大混雑。少し早く家を出て、東京国立博物館などにも足を運びつつ、15時の開演を待つ。休日午後の演奏会が14時に始まるものが多い中で、15時開演というのは大いに好ましい。14時だとお昼が慌ただしく、夜には早すぎるからだ。

R・シュトラウスの歌劇「エレクトラ」は、単一幕のオペラで休憩がない。100分もの間中、切れ目なく音楽が鳴り響くのは前作「サロメ」同様である。ただストーリーはより陰惨で救いようがなく、しかも主人公のエレクトラは終始舞台にでずっぱりであるばかりか、大音量で大声を張り上げる必要がある。そればかりか、その妹クリソテミスもまた、大変な声量が必要とされる難曲である。

私はこの「エレクトラ」に長年馴染めないでいた。数年前にMet Liveシリーズで映像を真剣に見たときも、不協和音だらけのとっつきにくいオペラで、それはシェーンベルクの「ヴォツェック」のような作品ではないか、とさえ思った。なぜか「サロメ」や「影のない女」のようにはいかなかった。そういうことがあって、ワーグナーにおける「トリスタンとイゾルデ」同様、この作品が私の前に立ちはだかっていた。

今年、オペラ体験の集大成として「トリスタンとイゾルデ」をとうとう実演を見たことは先日ここに書いたが、考えてみるとまだ「エレクトラ」が残っている。この作品はR・シュトラウスの作品の中で、唯一実演に接していない主要作品となっている。丁度いい機会が訪れた。「エレクトラ」はさほど人気がないのか、それともチケットが高すぎるのか、前評判がいいにもかかわらず多くの席が売れ残っていることがわかった。これは行かない手はない。いやここで行っておかなければ、後悔するとさえ思った。なぜなら「エレクトラ」の公演は、我が国ではまだ数回しか行われていないからだ(その数少ない上演史の中で、20年前の小澤征爾指揮による「エレクトラ」が「東京・春・音楽祭」の幕開けであった)。

開演時刻が来てオーケストラの団員が自席に着くと、その規模の大きさに圧倒される。管楽器のセクションだけでも6列。バイオリンは4パートもあり、さらにビオラから持ち替えて6パートにもなる。左端にはハープと打楽器が陣取っているが、3階席最左翼の私の位置からは見えない。やがて舞台には侍女たち6人がずらり勢ぞろい。指揮者のクリスティアン・ヴァイグレがタクトを振り下ろすと、いやそれはもう聞いたことがないようなすさまじい大音量が会場に鳴り響いた。

ベルリン生まれのヴァイグレは、2019年から読売日本交響楽団の常任指揮者に就任しており、もう5年目ということになろうか。お互い知れつくした間柄から見事というほかない音楽が、怒涛の如く流れ出すのは驚くべきことだ。そしてそれに負けじと歌う侍女たちは、いずれも我が国を代表する女性歌手たちで、みな奮闘している。この最初の数分だけで、興奮のるつぼと化した会場に、早くもエレクトラ(ソプラノのエレーナ・パンクラトヴァ)が登場した。

エレクトラはここでいきなり長いモノローグを歌う。その声量たるや、舞台上に陣取った大規模なオーケストラが大音量で鳴り響いても、なおそれは3階席までも十分届くもので、さらに驚異的なことには、そのボリュームを幕切れまで維持するという離れ業である。パンクラトヴァはロシア生まれの歌手で、世界各地の歌劇場で主役を歌うディーヴァだが、プログラム・ノートが配布されておらず、そのような記載はオンライン検索しないとわからない。音楽祭の全公演を網羅した分厚いプログラムを購入すれば、少しは掲載されているのだろうけれど、それでは興味ない公演のものも掲載されていてちょっと冗長である。

続けよう。次に登場したのがエレクトラの妹、クリソテミス(ソプラノのアリソン・オークス)である。英国人の彼女は、さらに驚くべきことにパンクラトヴァ以上の大音量で、聞くものを圧倒した。その声量は、まるでもうひとりエレクトラがいるのでは、と思わせるほどだったが、彼女は姉と違い、あくまで女性としての幸福を願ってやまない。姉から母への復讐を持ちかけられても、頑なに拒否する。

この劇の前半はすべて女声である。続いて登場するのが母親のクリテムネストラ(メゾ・ソプラノの藤村美穂子)である。彼女も何年もバイロイトで歌ってきた我が国を代表する女性歌手で、その歌声はお墨付きだが、夫を殺害し娘から復讐を企てられている悪役としては、ちょっと物足りない。いや、何というか、悪役になりきれない上品さが、ここではちょっと役柄に合わない、というか。ただそれは極めて贅沢な話で、歌唱そのものは圧巻であり、二人の娘に交じって壮絶なドイツ語の歌唱を披露する。

3人の主役級の女声陣が登場して、丁々発止の会話に巨大なオーケストラが盛り立てる。クリスティアン・ヴァイグレという指揮者を聞くのはわずかに2回目で、あとはMETライブで「ボリス・ゴドゥノフ」を見たくらいだが、この指揮者はこうも身振りの激しい指揮者だったかと思った。全身全霊を傾けて100人以上はいるだろうオーケストラをドライブする様は、それだけで見とれるのだが、歌手の見事さに耳を奪われ、さらには字幕を追わなければならないので非常に疲れる。シュトラウスの音楽が聴衆にもドッと押し寄せて、こちらの体力を試すかのようだ。まさに会場と舞台ががっぷりに組む真剣勝負である。

音楽が切れない。登場人物が入れ替わるわずかの時間に、オーケストラにスポットライトが当たる。シュトラウスの音楽は、この作品ではいつにも増して豊穣で急進的、緻密にして描写的である。歌詞のひとつひとつに合わせて、楽器がその事物を即物的に表現する。だから陰惨な話がよりヴィヴィッドに展開される。演奏会形式ではあるものの、歌詞を追うだけのであるにもかかわらず想像力が掻き立てられる結果、かえってそのおぞましさが強調されているようにも感じる。オーケストラが舞台上にいる、というのもある。

姉が復讐殺人の実行犯にと考えていた弟のオレストは、馬に惹かれ死亡したと告げられる。なら妹と二人で実行するしかない。しかしここでも妹はあくまで拒否。失望するエレクトラは、もはやひとりで実行するしかないと腹をくくる。そこに見知らぬ男が現れる。それこそ友人に扮した弟オレスト(バスのルネ・パーペ)だった!

ここの音楽は全体のクライマックスのひとつだろう。陶酔に浸るエレクトラ。この時点でもう舞台は半分以上が経過している。ひとり譜面台を観ながら歌ったパーペだが、彼の活躍を知らない人はいないほど有名な歌手だ。数々のビデオ、CDあるいは各地の公演で私もその存在をよく知っているが、実際に聞くのは初めてである。舞台に初めて男声が響く。うっとりするほど綺麗な低音である。脇役にもこれだけの大歌手が揃っているのは、見事というほかない。

とうとう復讐を実行するときが来た。このシーン、あまりに凄惨である上、オペラでないと見てはいられない話(もとはギリシャ悲劇だが)である。おそらく虐待されて育ったであろう長女が、父親を殺されたその場面を見ていたというくだりだけでもおぞましいが、それを殺った母親とその情夫エギスト(テノールのシュテファン・リューガマー)に復讐するというのは現代でもある話である。そのようなニュースを聞くことはつらく怖いが、そういう話は大昔からあって、それが舞台になっている。それに生々しい音楽が付いている。

ただ実際の舞台でもさすがにこのシーンは場外で行われることになっていて、その状況が逐一告げられ、それを聞きながらエレクトラが舞台上で歌う。断末魔の叫び声が舞台裏から響き、歓呼の声を上げるエレクトラとクリソテミス。ここから歓喜の踊りに狂う最後のシーンは、興奮を通り越し、もう何が何やらわからないようなだった。舞台が一層あかるくなり、指揮者の身振りがさらに大きくなって、ぐいぐいと音楽が進む。そしてそれが頂点に達したところで舞台の照明が一気に消され、幕切れとなった。

圧倒的な歓声に包まれた会場は、早くもスタンディングオベーション。最前列から5階席後方に至るまで、ブラボーの嵐となった。順に舞台に登場する歌手陣、指揮者、合唱団、それが何度も繰り返され、カーテンコールは20分近くに及んだ。出演した人はみな会心の出来ではなかっただろうか。満面の笑みをうかべて喝采に応えているその表情は、この音楽祭の最終公演に相応しい素晴らしい瞬間であった。

全身が硬直していた。外に出ると小雨が降りだしており、火照った頬に当たるのがわかった。

2024年4月22日月曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団第394回定期演奏会(2024年4月20日横浜みなとみらいホール、沼尻竜典指揮)

このコンサートがあることを知ったのも前日のことだった。NHKホールで行われるN響の定期公演に、クリストフ・エッシェンバッハの指揮するブルックナーの交響曲第7番が取り上げられる。そのチケットはまだ残っているかと検索していたら、20日14時からの神奈川フィルの定期で、ブルックナーの交響曲第5番の演奏会がヒットしたのだ。N響の公演は2日連続だから、19日夜の方にでかければ神奈川フィルの方にも行くことができる。幸い、予定は何もない。

指揮者は音楽監督の沼尻竜典である。私はこの指揮者と同年代であり、しかも出身である東京都三鷹市に住んでいたころ、よく地元のオーケストラを指揮していたようだったので、とても親近感を抱いていた。実際のコンサートでは、新国立劇場での「トスカ」(2012年)、神奈川県民ホールでの「ワルキューレ」(2013年)。それに三鷹で聞いた「魔弾の射手」(2013年)に接している。いずれも大変感銘を受けたもので、今でも記憶に残っているが、その沼尻はその後関西の「びわ湖ホール」の芸術監督を長年務めている。

忘れもしないのは、コロナ禍に陥った2020年春の「神々の黄昏」で、無観客となった会場からライブ配信された模様はあまりに痛々しく、それでいてなかなかの演奏で、私も2日間とも見入ってしまったのを覚えている。無観客となったことで集中力が増し、これはこれで音楽的充実度が増したのだが、収入を得られない興行というのがあまりに気の毒だったのである。この公演は観客を入れて、どこかで再演すればよかったのにと思ったが、もともと採算の合わないオペラ公演である。再演したらそれだけ赤字が嵩むという理由で、実現されることはなかった。

上記のように、私の沼尻経験は、すべてオペラである。なので、オーケストラの演奏会にも出かけてみたいとかねがね思っていたわけでが、そのときがやってきたというわけである。ブルックナーの曲が多く演奏されるl今年は、私も折を見て出かけることにしているが、第5番のコンサートはこれが最初である。いや第5番という曲はもともと難解で、私ももっとも敬遠していたものだから、ちょっと諦めかけていたところだった。だが沼尻の指揮する今シーズン最初の演目が、満を持して挑むブルックナーの第5交響曲だという触れ込みに、とうとう私も連日のブルックナー三昧を決め込んだ次第である。

だが神奈川フィルという団体、私はこれまでただ1度しか接したことはなく、その時の演奏もまあまあといったところで、技術的にはあまり期待ができたいと決めつけていた。それは2017年に聞いたマーラーの「巨人」の演奏(川瀬賢太郎指揮)で、まあローカルなオーケストラとしてよくやっているな、くらいの感想だった。今回もそういうわけで、あまり期待をせずに出かけたことは事実である。プログラム・ノートによれば団員に女性が大変多く、第1バイオリンなどはほぼすべて、他の弦楽器も木管楽器も女性たち。女性の音楽家が悪いとは決して言わないが、ブルックナーの音楽は極めて男性的ではないか、などと思っているのでちょっと不安に。

だがこれらはすべて杞憂に終わった!第1楽章冒頭から、気合の入った音がビンビンと響いてくるではないか。弦楽器の厚みも十分だし、そのアンサンブルの音色の確かさは、本場のそれである。前日に聞いたN響の音よりもはるかに、ブルックナーの音楽に相応しい音色に仕上がっている。少なくとも2階席横手で聞いた私には、そう感じられた。

それでかではない。木管楽器が弦楽器に呼応して、様々な動機を吹くシーンが大変多いこの曲は、クライマックスのような部分だけではなく、精密さが大変要求される大曲である。80分にも亘って音楽が弛緩することも許されないが、そのためにはそういった精緻な部分をおそろかにできない。これを実現するには大変な技術的水準と練習が必要となるだろう。それを確かなものとするには、当然ながら指揮者の力量が問われる、と素人の私でも感じる。だが、このたびの演奏は、それらがすべて備わっていた。私は特にクラリネットが見事だったと唖然とした。

金管楽器のセクションにいたっては、ブルックナー音楽の命とも言うべきアンサンブルの見事さで、重なり合うチューバやトロンボーンの音色が、本当にこれが日本のオーケストラかと思うほどの完璧な出来栄えで聞くものを圧倒した。終演後に割れんばかりの拍手とブラボーが飛び交う中、芸術監督が真っ先に駆けつけたのが、この金管セクションだった。彼は楽団員の中を通り抜け、奏者を順番に立たせて歓呼に応えた。

とにかく第1楽章の冒頭から、終楽章の圧倒的なコーダに至るまで、これほど完成度の高いブルックナーが聞けるとは想像していなかった。本人も満を持して挑んだ感があり、並々ならぬ集中力が感じられたが、観客席も水を打ったように静かであり、第3楽章の長いスケルツォあたりからはちょっと神がかり的な水準に達した。終楽章で第1楽章のメロディーが回想されて活気づき、コーダに向かって一気に進むとき、オーケストラはまるでひとつの楽器のように鳴り響いた。この難しい曲を、よくここまで聞かせるものだと、度肝を抜いたのは言うまでもない。

神奈川フィル、そして沼尻恐るべし、と思った。こんなコンサートがなされているのなら、月1階程度は横浜に来るのも悪くはないと思った。ただみなとみらいホールの音響は悪くないのだが、客席の視界が悪い。2階席だと部分的にしか見えないことが多いだけではなく、無造作に設置された柵が、丁度指揮者の顔の位置にあって視界を遮るのはいかがなものかと思う。これはホール設計上の問題である。少なくともあの柵は不要である。

東京と横浜はさほど離れていないのに、横浜に来ると一気にローカルな気分になる。それは大いに好ましいことなのだが、神奈川フィルの今回のような水準の演奏会がさほど知られていないとすれば、残念なことであろう。けれども熱心なブルックナー・ファンは、この演奏会を見逃してはいないと思われる。なぜなら長々と続く拍手は、石田コンサートマスター以下が退場しても静まることはなく、ついにはソロ・カーテンコールに及んだことからもわかる。次回以降の定期演奏会にはどんな公演があるのか、気になってブックレットをめくってみたが、そのような記載は一切ない。会場で配られていたチラシにも、そのようなものは用意されていなかった。これはちょっと残念に思ったが、それにも増して大きな発見となった今回の演奏会だった。

2024年4月21日日曜日

NHK交響楽団第2008回定期公演(2024年4月19日NHKホール、クリストフ・エッシェンバッハ指揮)

近年N響の演奏会から遠ざかっている理由は、チケット代が高い(来シーズンからはさらに値上げされる)ことに加え、ホールの残響に難があること(大昔から言われていることだ)、そしてあの渋谷の雑踏を通らなければならないこと、などである。

コロナの期間が過ぎ去り、以前にも増して渋谷を徘徊する人が増えている。日本人だろうと外国人だろうと、あの近辺をうろつく人々を私は好まない。そう言うのであれば、原宿から歩けばいいのにと言うかも知れない。しかし原宿への道は、代々木公園の暗い歩道を行くことになり、夜は淋しく物騒である。昼間の場合は逆に人混みが激しく、週末ともなると出店が数多出て騒音が鳴り響き、駅の改札口から長い行列が続くこともあって、時間までに会場へたどり着くのも一苦労だ。NHKホールの入り口には、5月の定期公演には、時間に余裕を持って来場するよう注意が呼びかけられている。

事程左様にNHKホールで行われるコンサートには、あまり食指が動かなくなってしまった。若い頃はコンサートのあと、渋谷の安い寿司などをつまみながらちょっと飲んでから帰る、といったことも楽しみだったが、そういうことはなくなって久しい。このたびのクリストフ・エッシェンバッハ指揮によるCプログラムも、私は当日午後まで行くべきか迷っていた。Cプログラムは休憩のない短いプログラムで、この日はブルックナーの交響曲第7番のみ。まあこの曲は70分もあるので、この一曲に全力投球ということであれば悪くはないのだが。

それでもこの日は朝から体調がよく、仕事を終えてから駆け付けても公演開始が19時半と通常より遅いから、十分間に合うことが予想された(ついでながら、我が国の演奏会の開始は19時からで少し早すぎる。これでは慌ただしく、仕事を終えるのに一苦労であり、しかも空腹の状態で会場入りすることになるため、諸外国同様20時からとすべきではないかと思っている)。

そういうわけで、十分に余っていた当日券を買い求めることとなった。直前まで迷うコンサートには、安い席で聞くのが良い。幸い3階左脇のD席が確保できた。公演前のステージでは、N響メンバーのよる室内楽の演奏も行われていて、この日はオーボエの吉村結実、坪池泉美、イングリッシュ・ホルンの和久井仁によるベートーヴェンの「2本のオーボエとイングリッシュ・ホルンのための三重奏曲ハ長調作品87」という大変珍しい作品の第1楽章が演奏されていた(さらにアンコールに、同曲の第3楽章も演奏された)。

2日あるN響定期の初日は、放送用の映像収録が行われるのが通常である。この日も複数のテレビ・カメラが設置されていたが、それに加えFM放送による生中継も行われる。かといってアナウンサーが司会をするわけではなく、至って通常通りの演奏会である。19時半になってステージに楽団員が入場すると、拍手が沸き起こった。それまで設置されていた指揮台は、どういうわけか直前に撤去された。この日のコンサートマスターは川崎洋介であった。

エッシェンバッハは、このところ毎年のようにN響に客演している。私はかつて、ラン・ランを独奏に迎えてのパリ管弦楽団の来日公演(2007年)に出かけており、その後、N響とはマーラーの「復活」を聞いている(2020年)から今回が3回目。もっともかつて若きピアニストだった頃にカラヤンと録音したベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番のディスクを持っていた。この演奏は暗く、テンポも遅くてさほど気に入っていない。この録音がリリースされただけで、他の曲の録音に発展することはなかったようだ。そのエッシェンバッハも、今年83歳になるということだ。

一方、ブルックナーの交響曲第7番はこれまでに、ロペス=コボス指揮シンシナティ交響楽団、小林研一郎指揮日フィル、スクロヴァチェフスキ指揮読売日響で聞いているので、これが4回目である。ブルックナー・イヤーの今年は、順に各曲を聞いてきたが、いよいよ第7番である。この曲は長いアダージョ(第2楽章)が全体の白眉と言える。そのクライマックスにシンバルが鳴るものと、そうでないものがある。今日の演奏はノヴァーク版によるものとされよく見るとステージ上に3人の打楽器奏者がスタンバイしている。

演奏が始まると、3階席でも十分に届く音量の大きさに圧倒されたが、そのごつごつとした鋼のような音楽が会場にこだました。第1楽章冒頭で、まるで弧を描くように、あるいは何かが地上に降臨するかのような弦楽器のアンサンブルに、さすがN響は上手いなと思った。個人的な感想を記そう。演奏はしかしながら、それ以上でもそれ以下でもなかった。大いに名演奏となっていった節はあるのだが、私の気持ちを揺さぶるものだったかと言われれば、残念ながらそうではない。ここは正直に告白しておく必要があるだろう。決して退屈はしないし、技量に不満があるわけでもない。だとすると、その原因は私の方にあるのかも知れない。

第2楽章の長いフレーズは、中低音のアンサンブルが聴き所だが、エッシェンバッハの音楽は音に艶が感じられない。ブルックナーの命とも言えるような、あのふくよかな弦楽器の感触と、金管楽器を主体とする和音の妙。これは会場のせいかも知れない。何せNHKホールは残響が少ないのだ。しかもせっかく対向配置されている弦楽の音が、3階席に届く時にはミックスされている。それに輪をかけて音楽に対するアプローチが、「復活」の時にも感じたが、どこか極度に醒めている。とどのつまりは楽しくないのだ。これはエッシェンバッハの特徴なのだろう。

そういうわけで、会場は非常に多くのブラボーが飛び交ったが、私はどこか腑に落ちないものを感じざるを得なかったのが事実である。聞いた場所の故でのみであるとすれば、いつものようにテレビでオンエアされるときには、もっといい音楽になっていることもあり得る。第7番は私の大好きな曲であるにもかかわらず、これはという名演奏という実演には接していない。ディスクで聞くと毎回感動的なのだが、もしかすると後半の2つの楽章が、前半に比べて聞き劣りするからだろうか。特に終楽章は(私の主観的な印象では)どこかとってつけたような曲に聞こえてしまう。前半が良いと、その傾向は一段と深まる。

ブルックナー・イヤーの今年は、これからも多くの公演が予定されている。第7番は人気があるので、他の指揮者で聞いてみようと思っている。東京ではこのあと、東響(ノット指揮)、新日フィル(佐渡裕指揮)、都響(大野和士指揮)などが検索できる。

2024年4月15日月曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第759回東京定期演奏会(2024年4月13日サントリーホール、下野竜也指揮)

この春から日フィルの定期会員になって2回目の演奏会に出かけた。指揮はまたしても下野竜也で、私は彼の演奏を今年に入ってすでに3回も聞いている。定期会員でなければパスしたかも知れない。だがプログラムが良かった。シューベルトとブルックナーのそれぞれの交響曲第3番。ロマン派の前期と後期、時代は異なるがともにウィーンで活躍した作曲家だ。今年はブルックナー・イヤーということで、数多くのコンサートでブルックナー作品が取り上げられているが、このコンサートもそのひとつである。

まずシューベルト。この交響曲第3番は目立たないが、愛らしい作品である。静かだが明るい序奏は一気に音楽を聞く喜びに浸してくれる。クラリネットによる主題が、平凡だがとても印象的である。第2楽章でもその木管楽器が大活躍する。春に聞くのに相応しい幸福感に満たされる。今年の4月は春というよりは初夏の陽気で、この日も最高気温は25度に達している。新緑の季節を先取りするかのような曲と演奏が、よくマッチしている。下野と日フィルはこの30分足らずの曲を、とても軽やかに演奏した。自然に音楽が良く鳴っているが、これがなかなかプロフェッショナルだと感じるものだった。

飽きの来ない若き日のシューベルトの演奏に幸福感が満たされ、後半のブルックナーへの期待が高まる。ここで、これまでに聞いた同曲の演奏を振り返ってみようと思う。まず最初に第3番の実演を聞いたのは、それほど古くはなく2016年、マルク・ミンコフスキ指揮東京都交響楽団による演奏だった(第836回定期演奏会)。東京文化会館の3階席脇という場所で聞いたにもかかわらず、これが非常な名演で私の脳裏に焼き付いている。この時の演奏は「ノヴァーク版、1873年初稿」というもので、ワーグナーに献呈されたもっとも最初のものである。

私は、ブルックナーについてまわる「版の違い」の細部にまで立ち入った聞き方をするまでには、ブルックナーを聞きこんでいない。しかしこの第3番に関しては、解説書によると実演に漕ぎつけるまで大変な苦労があったようで、改訂を加えに加えた結果、ようやくいま最も演奏される版になった、とのことである。その最もよく演奏される版というのは「ノヴァーク版、1889年第3稿」というものである。

2度目に2019年にこの曲を聞いた時、その演奏はこの「1889年第3稿」だった(パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団、第1916回定期公演)。この演奏も私の感動を大いに誘い、もはやこの曲はこれで決まり、とさえ思った。今後、この演奏を超えるものに出会えることはないと思ったのである。

ところが今回、下野が取り上げた演奏は、上記のいずれとも異なる「ノヴァーク版、1877年第2稿」というものだった。それぞれの演奏を再度聞いて比較することができないが、偶然にもそれぞれ異なる版で聞いたことになる。そしてこのたびの下野による演奏もまた、過去の演奏と甲乙つけがたいほどの感動を私にもたらした。それは、ほとんど完璧とも言えるほどのオーケストラの力量と、それをドライブする、自然で自信に満ちた指揮にあると言える。決して派手ではなく、気を衒った演奏ではないのだが、この演奏にはブルックナーを弾くのに必要な要素が詰まっていたと思う。

「ベートーヴェン第9の冒頭を思わせ」(プログラム・ノートより)るような冒頭から、それは感じられた。何かを生じさせるような、異様なものでは決してない。ただそれが鳴り響いているというだけで感じるブルックナー音楽が、次第に膨れ上がっていく、まさに自然空間のさま、それが会場を満たしたのである。以降最後まで、この外連味のない、作為を感じさせないリズムとメロディーが、まさにブルックナーの音楽らしいと思わないことはなかった。

「劇的な終結部が加わる」第3楽章のコーダでもそれは同様で、いわば職人的、玄人好みの演奏と言えようか。オーケストラは対向配置で、左手に第2バイオリン、右の奥にコントラバスを配している。弦楽器の艶のある重厚感もさることながら、管楽器のアンサンブルがこれほどにまでうまいと思ったことはない。このコンサートの模様は(前日の4月12日のものかもしれないが)ビデオ収録され、アーカイブ配信されるようである。私はこの企画に大いに賛同したいのだが、2つの点で不満である。まず、配信期間がわずか1か月と短いこと、そして料金が1公演1000円と高いことである。

今後、アーカイブ配信特典をチケットに含めることはできないものだろうか(特に定期会員)。また有料であるなら、配信期間はそれこそ永久でもいいのではないかと思う。例えばどこかの音楽ストリーミング配信プラットフォームと提携して、その会員であれば見放題といったことにならないか、と思う。それこそ全世界に無数に散らばる音楽コンテンツの中で、一定時間その演奏に耳を傾けることは、よほどのマニアでない限り、しなくなってきている。であればこそ、つねに気軽に体験できる状態を長く続けることが(そのコストは非常に小さい)、音楽家にとってもリスナーにとっても有益であるのは確かなことだ。

そういうわけで、この演奏を1階席後方で聞いた私は、このアーカイブにより再度演奏を楽しみたいと思っているのには理由がある。当日は少々体調が悪く、こちらの集中力が維持できなかったからだ。演奏は名演なのに、それにライブで接している自分がもどかしかった。音楽は一度きりの芸術である。どんなに足の悪い老人でも、難聴や盲目の方でも、コンサート会場へつめかける(実際、そういう人を良く目にする)のは、得難い経験を共有するためである。私もまた、体に鞭を打って会場に出かけた結果、とても素晴らしい演奏に出会うこととなった。現代の技術により、これを再生する機会を持つことができるのは、嬉しいことである。

鳴りやみかけた拍手がいつのまにか再燃し、指揮者はソロ・カーテンコールとなったようだった。私はすでに会場をあとにしていたが、最近はこういうコンサートによく出会う。それもみな演奏が素晴らしいからだろう。実感として、特にコロナ禍以降には名演奏に出会う確率が大きく増しているように感じている。だから、今後のコンサートにも目が離せない。今日聞いた3つの版によるブルックナーの交響曲第3番を、もう一度ディスクで聞いてみようと思っている。

2024年4月1日月曜日

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」(2024年3月29日、新国立劇場)

前奏曲冒頭のトリスタン和音が鳴り響いた時から、いつもとは違うなと感じた。これほどにまで深く脳裏に刻み込むようなメロディーの連続に、そしてそれを確信に満ちた足取りで音符を奏でる大野和士指揮東京都交響楽団の演奏に、一気に飲み込まれたからだ。以降はしばらく体が硬直し、北海の海のうねりを繰り返すオーケストラの響きに、しばし圧倒された。

舞台は早くも幕が上がって、丸い天体が昇って来た。それは次第に赤くなりながら、舞台の上部にゆっくりと移動する。暗闇の奥から一双の船が現れ、向きを変えて舞台の中央に動く。アイルランドの王女イゾルデを乗せた船が、マルケ王の待つコーンウォールの港に向けて航行しているのだ。甲板にはイゾルデ(リエネ・キンチャ、ソプラノ)と侍女ブランゲーネ(藤村美穂子、メゾ・ソプラノ)がいる。

船にはイゾルデを迎えに来たトリスタン(ゾルターン・ニャリ、テノール)も乗船している。だが第1幕最初の主役はイゾルデ、そしてブランゲーネだ。以降、第1幕はどちらかというとこの物語の前提となるいきさつが述べられる。ワーグナーお得意の長々とした語りのシーンも多いが、それでも聞き所は満載。驚くべきことに、主役二人を含め歌唱水準の平均値が恐ろしく高い。これによって物語への没入感はいっそう深まる。

本公演は2010/11年シーズンで上演したデーヴィッド・マクヴィカー演出版の再演である。この時指揮をしたのも大野和士だった。私はこの公演のことを知らないが、評判が良かったのだろう。大野は2018年から芸術監督に就任した時から再演を望んでいたようだ。そしてコロナ禍を経てようやく実現に漕ぎつけた。私は、ワーグナー作品の中で唯一実演に接してこなかったこの作品を、とうとう見ようとひそかに考えていた。

そもそもクラシック音楽を聞き始めて以来、多くの作品、とりわけオペラには関心が高く、これまで主要な作品と言われるものは、時間とお金をやりくりして出かけてきた。その公演のすべてをこのブログに書き記してきたが、とうとう最後の主要作品となったわけだ。値上がりした新国立劇場のオペラのチケットは、もはや私には簡単に手が出せるものではなくなった。だが「トリスタン」だけは何が何でも見ておかねばならない。

本当は昨シーズンの「ボリス・ゴドゥノフ」も、今シーズンの「エフゲニー・オネーギン」も見たかったが、これは断念せざるを得なかった。昨年からの私は時に体調が悪く、長い時間椅子に腰かけていることに不安だったということが大きい。仕事は4月から大きなプロジェクトが始まることが決まっており、私もそれに関わる予定だ。時間があるのは今のうちである。さらには息子が受験生となり、志望校を目指して勉強をしてきたが、それもこの3月で終了。最後の合格発表が3月下旬になり、18年続けてきた子育てに区切りが訪れる。私はこの日が来るまでは、チケットを買っていなかった。

その最大の理由は、実のところ主役二人の交代が発表されていたからだ。そもそもトリスタンもイゾルデも、世界でそう誰でも歌えるものではない。とりわけトリスタンは、この5時間にも及ぶ作品に出ずっぱりで、その間中ずっと声を張り上げていなければならない。「トリスタン」の公演には幕間に2回の休憩があるが、そのいずれもが45分間と長いのは、喉を休め声を整える必要があるからだ。そのトリスタンを歌うはずだったトルステン・ケールが来日できなくなり(理由は不明)、すでに発表されていたイゾルデ役(エヴァ=マリア・ヴェストブルック)の交代に続いて、決定的に魅力を失ったと思われた。

丁度この頃、東京では今一つの「トリスタン」が上演される。東京・春・音楽祭である。指揮はマレク・ヤノフスキ。NHK交響楽団との組み合わせで、何年も前からワーグナー作品を毎年取り上げてきた。演奏会形式ながら公演の水準は驚異的で、私も「ニーベルングの指環」を4年に亘って鑑賞したことは記憶に新しい。だが、よりによって同じ時期に、東京で二つもの「トリスタン」を上演することもないのに、と思った。時間と懐具合を考えると、さすがに両方に出かけるのはかなりきつい。時期を分けてくれるとありがたいと思った。

その上野での公演の方が、もしかするといいのではないか、などと考えた。だが私はヤノフスキの速い演奏が「トリスタン」には相応しくないと思ったことに加え(実際はそうでもなかったようだが)、この作品はやはり舞台を観たい。でも新国立劇場のオペラの値段は、昨今の物価高と円安によって大幅な値上げを余儀なくされ、S席で3万円を超える価格設定になったのを受け、私もさすがに主役二人が交代する上演を見るのは、ちょっとやめておこうと思ったのである。

ところが、である。初日を迎えた公演の状況を、いつも読んでいるブログなどを眺めてみると、これが恐ろしいほどに高評価なのである。X(旧Twitter)でもそれは同じだった。息子は何とか進学先が決まって、ようやく私の肩の荷も下りた。体調は相変わらずだが、だからこそ見られるときに見ておきたい。仕事は3月末で大きな人事異動があり、いろいろ組織が変わって歓送迎会なども開かれるが、それも29日が最後。30日の千秋楽公演は金曜日の午後で、年度末の繫忙期ではあるものの、必死にやりくりをすれば何とかなるだろう。何せ「トリスタン」を見るのは、今回が最初で最後となる可能性が高い。

ホームページでチケットの発売状況を見ると、やはり値段が高いからだろう、そこそこの枚数が売れ残っていた(最終的には売り切れた)。そして嬉しいことに1階席の中央寄り通路側という絶好のポジションが残っているではないか!そこで私の腹は決まり、この席に3万円強を支払った。その時から1週間は、まるで遠足を前にした小学生の気分だった。数日前からは体調を整え、会社の送別会でも深酒は慎んだことは言うまでもない。そのようにして万全を期して初台へ。前日まで降り続いた大雨もようやくあがり、気温も一気に上昇して春めいてきた。

その「トリスタン」の公演には、外国人も多く詰めかけていた。韓国からのグループもいたが、みな着飾っていることに比べると、我が日本人の服装のセンスのなさには失望させられる。特にワーグナー作品となると、高齢の男性の比率が異常に高く、一様にみすぼらしい恰好ときている。ただ今回はどういうわけか、そういう「ダサいワグネリアン」に加え、若い人、それも女性が多いのである。これは「トリスタン」だからだろうか。あとでわかったことだが、若い客が多いのは、チケットの割引があるからだろう。いつものワーグナー公演とは異なる雰囲気に、私は少し戸惑いつつも気分は高揚していた。

第1幕の後半には、とうとうトリスタンが媚薬を飲まされてしまう。政略結婚への準備に、毒薬と媚薬をもってきた侍女が、毒薬と間違って飲ませたのが媚薬だった、というわけだ。二人の体内に薬がじわじわと浸透し、ついに覚醒するシーンが印象的である。二人の相克が頂点を極めたあとで、解き放たれたように音楽もパッと変わる。と同時に、舞台に銀の垂れ幕のようなものが出現した。愛の音楽、それは死の世界。ここから第1幕の幕切れまでは、二人が躊躇なく愛し合うシーンになる。そして船はコーンウォールに到着する。

心に残ったシーンは第2幕の最初で、盲目的なイゾルデの愛は、ブランゲーネの忠告もむなしくまっしぐらである。松明を消す時に歌われるイゾルデの歌が、大変美しいと思った。舞台の奥から時折登場するブランゲーネの声が、イゾルデの声を重なり合う。イゾルデのキンチャとトリスタンのニャリは、いずれも最高位ではないものの、不足感を感じさせない歌声だった。この二人に決定的な不満が残らないことが、まずはこの公演の成功に最大限寄与したと思う。

それにも増して素晴らしかったのは、トリスタンの従者クルヴェナール(エギリス・シリンス、バリトン)とマルケ王(ヴィルヘルム・シュヴィングハマー、バス・バリトン)だったことは疑いがない。彼らの歌声は、まさにこれぞワーグナーというべき貫禄で、声の張りが一等際立っていた。だが、彼らと主役二人を同列に扱うのはやや不公平だろう。なぜなら出演するシーンが主役に比べ圧倒的に少ないからだ。彼らが少ない出番に力を集中させればいいのに対し、主役級はほぼ全編で粘り強い歌唱力が必要である。いわば中継ぎ投手と先発投手を同列に比較できないようなものだ。

第2幕では、二人の逢引きがマルケ王に見つかるシーンがクライマックスである。メロート(秋谷直之、テノール)の剣に倒れるトリスタン。第3幕ではその負傷したトリスタンが、死に絶えていくシーンが長々と展開され、そこにかけつけるイゾルデが「愛の死」を歌う。この最後のシーンこそ、最高の見せ場である。衣装を赤いドレスに変えた彼女が歌うその歌詞が、舞台両脇に表示される。これほど字幕が嬉しいと思ったことはない。普段、「前奏曲」と「愛の死」だけを聞いているだけではわからない、この長い時間を経て繰り広げられる歌詞の持つ意味が、ひしひしと伝わって来る。溢れんばかりのロマンを讃えて流れる歌唱に、聞き手の目頭は熱くなり、涙で字幕がぼやけてくる。あまりに美しく、陶酔に満ちた音楽はワーグナーの魔法である。5時間以上に亘って舞台を見続けた者だけが感じることのできるわずか10分間、私は感動に打ち震えるのを抑えることができなかった。

おだやかに、静かに彼が微笑みながら
目をやさしく見開く様子が
みなさんには見えているの?見えないの?
しだいに明るくかがやきを増し、
星々に照らされて空高く昇って行くのを
・・・
こんなにも素晴らしくかすかに、
歓喜を嘆き、すべてを語り、
その響きの中からおだやかに調和し、
私に迫り、私を揺さぶり、
優雅にこだまし、
・・・

自分自身のクラシック音楽鑑賞の集大成として、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」を見るのは、公私にわたって一区切りがつくこの時と決めていたのは、この公演が丁度その時期に偶然重なったからである。どちらかというとそれまで遠ざけてきた作品、音楽史上重要で、しかも音楽的に例えようもなく魅力があると言われてきた本作品を理解することが、素人の一愛好家には高い敷居だった。もちろん私は、クライバーの録音にも接したし、METライブの上映も見たことはある。しかし、ちゃんと親しんだとは言えない中途半端な状態で40年余りの歳月が流れ、満を持して挑んだ「トリスタンとイゾルデ」の実演を、生きている間にもう見ることはないだろう。少なくとも私にその機会が再び訪れたとしても、今回の公演以上の出来栄えを期待するのは不可能ではないか。

だが私はこの作品を、若い時に見ておきたかったと思い、少し後悔した。本日の公演では、結構若い客が多かったが、もしこの作品に多感な時期に触れていたら、人生が少し変わったかも知れない。もっともそのように思えるには、それなりのオペラと音楽の経験が不可欠だとも思う。つくづくクラシック音楽は難しく、恐ろしいものだと思う。名作の名演に接したところで、それが自分の意識にピタリと当てはまるとは限らない。が、偶然にも当てはまった時には、その人の人生をも変えてしまうほどの力を、音楽というものは持っている。とりわけワーグナー、その最右翼たる作品が「トリスタンとイゾルデ」であることは確かだ。

嵐の「昼」に始まった楽劇は、第1幕と第2幕の間には雲一つない快晴となり、終演時には日も暮れて「夜」になっていた。あれから数日たったいまでも、私の脳裏には「トリスタン和音」が鳴り響いている。

2024年3月24日日曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第758回定期演奏会(2024年3月23日サントリーホール、アレクサンダー・リーブライヒ指揮)

定期会員になると安く席が確保できるのはいいのだけれど、その日にスケジュールが入ってしまうこともあって、日程調整が結構大変であることは経験済みだ。それでも今回、初めて日フィルの春季の会員になったので、夏までの計5回のコンサートのチケットが送られてきた。その最初となる第758回定期演奏会が、サントリーホールで開かれた。

毎年3月の下旬になると、アークヒルズ脇にある桜並木は、「満開」と言わないまでも結構な咲き具合で、「7分咲き」か「満開近し」の趣である。ところが今年は、(早く咲くと言われていたのに)寒の戻りが長く続き、一向に咲く気配がない。「ちらほら」でもなく「つぼみほころぶ」といった塩梅。聴衆もコートを着てマフラーを巻き、曇天の中を会場へと急ぐ。

演奏会は2日にわたって開催された。正式には私は金曜日の会員なので、本来は前日22日の予定だったのだが振替をしてもらった。このシステムは大変有難い。そして振り替えてもらった席も1階の通路側と悪くない(A席)。席に行くと会員向けの冊子が置かれいて、アンケート用紙が入っていた。

5つある定期演奏会のうち3つ以上がお目当ての場合、会員になるのが経済的だ。今季は4つの公演に興味があった。その中に今回の公演は入っていない。しかし、会員にならないと行かないであろうコンサートでの、曲や演奏との思いがけない出会いもまた、定期会員の醍醐味であると言える。プログラムは三善晃の「魁響(かいきょう)の譜」、シマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番(独奏・辻彩奈)、そしてシューマンの交響曲第3番「ライン」という、どちらかと言えば玄人向けの渋い内容。でもこういう時こそプロの心をくすぐるからか、名演奏になることも多いことは過去に経験済みである。

さて、そういうわけでアレクサンダー・リーブライヒというドイツ人の指揮者も初めて聞くことになったわけだが、日フィルとの相性もなかなか良いと見えて、実力の発揮された印象的な演奏となった。まず三善晃の作品だが、最近コンサートで日本人作曲家の作品が取り上げられることが多い。しかし私はこの曲を初めて聞いた。「魁響」という言葉は(おそらく)造語で、手元の広辞苑にも載っていない。プログラム・ノートによれば「魁」はさきがけ、すなわちものの始まりの前段階を意味し、その響きという意味で名付けたようだ。ただ興味深いのは、この作品が岡山のコンサート・ホールのこけら落のための作曲されているこで、吉備地方の霊感に触発されたことによるということである。

岡山はほとんど旅行したことがないが、吉備津神社には行ったことがある。ここの長い回廊を、雪の降る年末の寒い日に歩いた。寒くて霊感どころではなかったが、その時のことを少し思い出した。曲はしっかりとした、割と長い曲だったが、手中に収め切った指揮と演奏で聞くものを飽きさせない。中盤のリズミカルな部分も含め、現代音楽の語法てんこ盛りのような曲だが、堂々としたものであった。

ヴァイオリンのセクションが一時退席し、独奏者のためのスペースが作られる。やがて登場した辻彩奈は、初めて聞くヴァイオリニストである。ここのところ、若い日本人の弦楽奏者に出会うことが多いが、彼女もまたそうである。シマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番は実演で聞くのが2021年以来2回目。近年なぜかポーランド人作曲家の作品がプログラムに上ることが多いような気がする。若い演奏家がシマノフスキの作品をこなしてしまう技量の高さにも驚くが、失礼ながら私はこの曲の間中、耐えがたい睡魔に襲われてしまいほとんど記憶が残っていない。それでも最終盤のカデンツァでの堂々とした演奏は、この曲に賭ける彼女の強い気持ちが表れていたように思う。

休憩をはさんで演奏されたシューマンは、さっそうとしたさわやかな演奏だった。ホルンをはじめとして日フィルの巧さが際立った。シューマンの音は弦楽器と管楽器がそのまま混ざったような独特のもので、アレルギー性鼻炎に苛まれる春霞の時期に良く似合う、などいうことを思うのは私だけだろうか。ただ「ライン」という曲はライン川の雄大な景色をそのまま音にしたようなところが魅力的で、私は4つの交響曲の中では最も好きな作品である。それでも実演では、過去に一度しか接していない。

リーブライヒの伸びやかなで、かつ細やかな指揮によってこの曲の魅力が伝わって来る。今ではめずらしく各楽章の間に十分なポーズを置くのが好ましい。音楽を聞く喜びを味わい、その終楽章でコーダが決まると、女性がうなり声をあげ、続いて多くのブラボーが飛び交った。おそらく満足の行く出来だったのだろう、大変うれしそうに何度も舞台に上がった指揮者は、満面の笑みを浮かべていたのが印象的だった。

ラフマニノフ:交響曲第2番ロ短調作品27(ミハイル・プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団)

昨年のラフマニノフ・イヤーに因んで、交響曲第2番を取り上げようと思っていたのに忘れていた。季節はもう4月。寒かった冬は一気に過ぎ去り、今ではもう初夏の陽気である。チャイコフスキーとはまた別の哀愁を帯びたロシアのメロディーは、やはり秋から冬にかけて聞くのがいい、と昔から思ってきた。...